岐阜県 瑞穂市でリフォームのお考えの方はヨシダホームの「初めての方へ」をまずお読みください。

ヨシダホーム 創業物語

こんにちは、岐阜県岐阜市に創業1958年以来、1973年旧巣南町(現瑞穂市)に移転後も地元を中心に家づくりで3580件のご縁を築いてきたヨシダホーム2代目代表の吉田敏之です。大工職人から工務店として多くの住宅を建ててきた父親の影響を受け、規模は小さいながら跡取りとして、育てられてきました。父親の仕事ぶりから、「人を大切にする」ことを何よりも大事にしています。社員、協力工事店の社員と力を合わせ、「あんたがたに頼んでよかった!」とお客さんに喜んでいただくことが、私の何よりの幸せです。

実直な父の仕事を見ながら育った幼少期

私の父は、益田郡下呂町竹原(今は下呂市)で、農業を営む家の三男として生まれました。
第二次大戦中は、各務原の三菱重工に学徒動員で、飛行機を作っていたようです。何度も空爆があり、近くの山まで息絶え絶えに何度も逃げたことを聞かされました。戦後、住宅復興一役買うことが必要だと考え、大工の道に進みました。
当時の職人修行の道は厳しかったけれど戻るところはないので一生懸命極めました。当時、岐阜市の米屋さんの屋根裏で間借りしていたようですが、その真面目さを認められ、近くの大変厳格な一人暮らしの年配の女性のもとに養子に入り、吉田姓を名乗るようになりました。
父の他にも養子は居たそうですが、一人住まいで、耐えることができない養子も居たそうです。その中で、まじめな父は認められ、母と結婚。
私が生まれる頃には、数名のお弟子さんを取るようになっていました。そのころから、私は後継ぎだと教育されてきました。
でも、父に厳しかった義理の祖母に可愛がられた、いわゆる「おばあちゃん子」で、多少ひ弱に育ちました。でも、父の頑張りを見ながら建築現場の楽しさは肌で感じていました。

岐阜西工業高校建築科、大学受験失敗

私は、高校受験も成績はまあまあだったのですが、周りからは、何もアドバイスがないまま、安易に後継ぎという事から岐阜西工業高校の建築科に進むことにしました。
それでも、高校の2年ごろになるとこのままでよいのだろうかという葛藤が芽生えてきました。担任の先生に相談し、大学進学を決意。同様の考えを持つ同級生とともに、放課後、担当課の先生から学ぶ勉強をすることにしました。
父親譲りなのか?こんな真面目な生徒はいないと話題になり、数人の先生が代わる代わる私に勉強を教えてくださり、真面目にコツコツやる勉強スタイルが身につきました。
父親からは「国立大学に建築学科なら行かせてやるけど、それ以外だったら修行に出す。」と言われていましたので、一浪までして頑張りましたが、結局、国立大へは入学することが叶いませんでした。

しかし、父は「頑張ったから仕方がないから、夜間なら私立大学でもかまわない」と許してくれ、名城大学理工学部Ⅱ部建築学科に籍を置くことになりました。2年間は、父親の言う修行を名古屋金山の小さな大工職人の集まりの工務店で修業をしました。
修行中は、私と同様修行中の若者…当時でいう「兄弟」と呼ばれる同僚と8畳間で雑魚寝という生活でした。義理の祖母に甘えてきたからなのか、その状況に私はどうしても納得がいかず、2年で辞めて家に帰ると、父は私に「自分で辞めてきたのだから、自分で職を探せ」と厳しい言葉を投げるのでした。
高校時代の恩師に相談したところ、ちょうどよいところがあるという事で、15時までの社員という条件で材木店に就職が決まりました。製材機担当職人さは大変厳しい人たちでしたが、材木のいろいろな知識を若い私に叩き込んでくれました。この材木店には大学を卒業するまでの2年間お世話になりました。

大学卒業をしてすぐ、ある方から、こんなにお世話になった材木店の社長さんには、事あるごとに感謝の気持ちを忘れてはならないと助言をいただきました。
その言葉を受け、はじめは毎月、社長さんがそんなに来なくてもといわれるようになるまで、ごあいさつに伺いました。その後は半年毎、やがて盆暮れという風になりましたが、今でも、当時専務だった方と年賀状のやり取りをさせてもらっています。
この一連の青春時代に人間関係の大切さを知ることができました。

いよいよ家業に入るも苦難の日々~父の一言で目覚める

その後、私はいよいよ、家業である吉田建築工業に入りました。その頃、父は第一線で棟梁として頑張っていました。一方、私は自分の立ち位置も分からず、現場まで材料を運ぶ、職人さんにどやされる、父からもどやされる、自分の学んできたことが生かされず時には、胃がキリキリと痛み、かんしゃくを起こしそうな日々が続きました。本当に心が折れそうでした。その様子に気づいた父は、「お前は、いろいろ学んでこの道に入ってきた。学んだことは無駄なことは一つもない、いつか花咲くことがある。大器晩成で行きなさい。」という言葉をくれました。本当にありがたい言葉でした。
これから、受験勉強で培った勉強方法で、2級建築士、難関だと言われている1級建築士を取りました。今振り返ると、自分の基盤ができたのがこの時期だと思われます。自分の殻を破るには大切な時期でした。

家業の成長、父の死の哀しみは感謝へ~そして使命への気づき。

その後、父親はだんだんと、こだわっていたお客様の打ち合わせからは身を引くようになり、設計、積算、打合せは自分の仕事としてくれました。私は、30歳で結婚、平成元年長男が生まれる頃には、社長が父で、私が専務の(有)ヨシダホームを立ち上げ、法人化しました。小さな会社ですが、何とかお客様に満足していただけるよういろいろ工夫しました。
吉田家プライベートでも親子三代で楽しく…と思っていた時、父が65歳という若さで、平成7年に癌で他界。しかし、私は35歳という若さでしたが、段々と権限を与えてもらっていたお陰で、若造でしたが、割合スムーズに社長を引き受けることができました。
父が亡くなってから気づいたのですが、協力業者さんへの支払いは、一度も滞ることなくされているなど、安心して各業者とも付き合い、スムーズな協力体制を、父は整えてくれていました。
その徳を私が引き継いでいることを実感、お客様からも吉田さんにやっていただいた工事は、後から狂わないとの有り難い評価をいただいています。それは、一生続けていかなくてはならない使命だと心に刻んでいます。

さて、その後~父の言葉を胸に新たなステップへ

父から受け継いだ会社は、時代の流れや実情に応じて、安定した継続と、仕事の喜びを感じ続けられるように、常に身軽にしてきました。
誠実に前進しながら、先を見据えるように心がけるよう努めています。
常に中心にあるのは「お客様の満足」です。
新築工事部門では、この地方の猛暑と極寒の気候に合わせた住まいを考え、まず、20年ほど前に自宅を建て、自ら実証。高断熱・高気密のコストダウン住宅を年に1~2軒ほどコンスタントに続けてきました。
そのほとんどが、紹介で営業活動はほとんどしておりません。
リフォーム工事に関しても同様。常にお客様の安心、満足を考えてきました。
でも、会社として存在し、「次世代に渡せるかどうかとふと考えた」とき、もっとお客様に役に立つ方法がないかと、もっと、お客様に出会える方法がないかと自問自答しました。それと相まって、ここ数年間は、悪徳リフォーム会社の実態を目にします。最近出会ったお客様も、痛い目にあわされていました。そんなことでよいのか、この業界の者として責任を果たせるかということを自問自答しました。
そこで、父親のことを考えてみました。本当に零細な個人業主でした。それでも、「仕事は、自分の家を建てるように大事にする。」という考えのもと、まじめに地道に仕事を続けてきました。自分も、大手にできない小回りの利く、責任を持つ仕事を続けていきたいと決意しています。

さて、その後~父の言葉を胸に新たなステップへ

父の
「お前は、いろいろ学んでこの道に入ってきた。学んだことは無駄なことは一つもない、いつか花咲くことがある。大器晩成で行きなさい。」
を忘れず。毎日が経験、勉強だと考え、お客様の安心満足のために東奔西走するのが生きがいとしたいと思います。

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